2012年4月23日月曜日

《連載》喫茶偏愛記♯03(番外編) ジャズ喫茶シアンクレール(Champ Clair)



『Silence is Golden』
――沈黙とは話さないこと、歌わないこと

 

「生きている。恋をする。文句あっか?」
 一体、誰のセリフだっけ? ああ、『GO』の窪塚だっけ……。
 生きること、生かされていることを考えた時、この言葉が僕の中で蠢いている。僕にとってとても強い言葉だ。強く、エネルギーに溢れた言葉。この言葉を口にすると、今でも有刺鉄線の張り巡らされたコンクリート・ジャングルを裸足で走り出したくなる。
 まあ、実際問題、生きることについては深く考えたことなど余りない。体は健康そのものだし、これと言って、何もしなくとも、僕は普通に生き続けるだろうから。
 しかし死について考えた時はどうか? 死、それは生の反対にある言葉。僕にとって余り身近ではない言葉。しかし、生きることに疲れた時、考えるのは死についてのことばかりだ。生きている、生かされている――それ以外……。
 今現在、僕にとって死は生の中断に当たると思う。生きる意味を見失った時にだけ現れる選択肢。そして、死について考えた時、思うのはいつも彼女のことだ。時々自殺を仄めかす、煙草を吸い、酒を飲む、見栄っ張りで甘えん坊の女の子のことだ。

 彼女と僕は良く似ている、と今でも強く思う。彼女の存在を初めて知った時、僕はどうしようもなく彼女に焦がれてしまった。いつでも本物に近づこうとし、しかしその目的が果たせず悩んでいた二十歳の少女。学生運動の嵐の中、自己を確立しようと格闘しながらも理想を砕かれ、愛に破れた孤独な少女。それが彼女だ。
 彼女はある時には詩人であり、またある時は冒険者だった。中学時代からずっと書き留めた幾つかの彼女の手記に触れたのが、彼女との最初の接点であった。
 彼女の言葉は瑞々しく生命の息吹が吹き込まれ、どのような精神状態の時でも、その透明さを失うことはなかった。僕は、彼女と言葉を交わすことが出来なかったけれど、手記の中に込められた彼女の気持ちだけは汲み取ってやれるはずだと思った。

 彼女が生まれたのは昭和24年の1月。僕が生まれたのはそれからざっと40年後の2月だ。1949年と1987年――、それはとてつもない距離だ。どうあがいたって彼女の側にいられるはずはない。それになにより、結局のところ、彼女は二十歳という若さで自殺してしまっているのだ。
 僕が今現在、触れることの出来る彼女の部分は、死後に発表された三冊の手記だけだ。それが僕の知ることの出来る、彼女の全てだ。この物語は彼女に向けた物語。いや、或いは物語でもなんでもない。出会うこともなく恋をした、亡くなった人への一通のラブ・レターなのかもしれない。

『独りであること、未熟であること、
 これが私の二十歳の原点である』
 彼女がこの世に残した手記は、そんな科白で始まる。僕は今でもこの言葉を思い出す度、薄暗い闇を連想することになる。何処まで歩いても決して抜け出すことの出来ない暗闇を。
 彼女はいつも手記の中に、真実の自分の生き方・アイデンティティーを模索していた。それは言い換えれば、理解されたことのない、彼女さえ知らない真実の姿だ。僕は彼女の文章を読んでいつも言いたいことが山ほど出てくる。きっと、誰もが同じ悩みを抱えているんだよ、と。君も僕も、顔も名前も知らない誰かだってね、と。だから彼女が死んで、これほどまでに時間が流れた今だって、彼女の思いを汲み取ろうとする僕が居る。いつの時代も、うまく周囲と折り合いがつけれない人々は沢山居る、彼女は多分、そのことを知らなかっただけなんだと思う。


 ※


 拝啓 高野悦子 様


 君の本を読みました。数ページ読んだだけで、君がとても愛らしく、チャーミングで頑張り屋さんだということがすぐにわかりました。だって自分で書いているんだもの。笑っちゃいますね。
 君は言います。煙草は反逆の狼煙で、メガネは偽りの仮面だと。
不思議なものですね。僕もまったく同じ意見です。自身の目をガラスで防衛し、真実の自分(とてもデリケートな部分)は誰にも見せやしまいとする姿に、僕は共感しています。時代も生活も、ましてや価値観だって違うのに、どうにも君のことが手に取るように分かってしまうのです。僕は君に同情し、同時にいたたまれない思いに包まれることになります。君の年齢、君が生まれた時代、京都という土地――。
 もし君が現代で、そして僕のすぐ近くにいたのなら、或いは君は命を落とすことなんてなかったんじゃないかな、と思います。おこがましいですね。でもね、それは全部本当のことなのです。

 今はなき場所――京都は『しあんくれーる』。君の居場所。最後の数ヶ月、君が熱心に通っていたジャズ喫茶。僕もこの店を一目見たいと焦がれ、河原町通『荒神口』交差点まで足を運んだのですが、その店は1970年を最後に、消えていました。今では店先に走っていた路面電車もなくなり、当時を連想させるものは何ひとつ残ってはいません。今現在、僕の手の届くものは、その店のマッチくらなものです。

 僕が君の本を初めて読んだのは一昨年の暮れ頃でしょうか。知り合いの映画監督に勧められ、慌てて神保町に買い求めたことを強く覚えています。彼はその本を僕に勧めるにあたって僕にこう助言してくれました。
「あんたにこの本をすすめるのは気に病むんだがな、でも、名作であることに変わりないよ。危険を孕んだ文章だが、あんたと良く似てる。だから、あまり深入りするなよ」と。
 僕には最初、その言葉の意味が良く分かりませんでした。僕と似ているからって、何故深入りしてはいけないのか。けれど、読み終わった時、ようやくその意味が分かりました。君が、外面世界との関わり合いに疲れ、自殺してしまったということが。自慢ではありませんが僕の方でも君と同じく、いささか外面世界に対し、辟易していたところなのです。でも、僕は命を落とす程、外の世界に希望を持てないわけではありません。これでも一応希望はあります。嘘じゃありません。しかし、それでも尚、この世界に生きることについて思い悩むことは多々あります。何の為に生まれ、何の為に生きているのか、それがだんだんと分からなくなる時があります。そんな時僕は、君の言葉や詩の意味について考えるのです。
 鋭く豊かで、内省的で行動的――そんな幾つかの君の詩。それらの詩は真実の世界を覗かせ、君はそれを優しく詠います。君は詩人になりたいと強く願っていたけれど、間違いなく君は、本物の詩人だと僕は思います。
 ぼんやりとした寂しさが一日を支配するような時は、僕は黙って心の中を覗く行為に没頭します。そんなことをして、一体何処に向かうというか、それは僕にも分かりません。しかし、僕はそんな時、もしかしたら君もこういう風に時間を使っていたんじゃないかな、と考えずには居られないのです。そして僕は頭の中で、言い聞かせます。「お嬢さん、そんなことしてみたって、何も変わりはしないんだよ」と。

 僕の好きな君の科白に、こんなものがあります。
「注意しなくてはならないのは、吐き出し、ぶっつけるのは常に己自身に対して行うものである。他人の人間に対しては、幾ばくかの演技を伴ったほうが安全である」
 僕はこの言葉を見た時、とても孤独な生き方だと思いました。そして、思い返して見た時、僕も同じ価値観で物事を見ていたことに気づき、嫌気が差したのです。眼鏡で真実の姿を晒さないこと、他者には演技で装うこと。それは本当に、孤独な生き方です。もし、自分自身の中に確固たる何かがなかったとしても、そんなことは気にせず、他人に見せてしまえば良かったのです。君が、そのプライドの高さ故に、それを許せなかったことは理解しているつもりです。
しかし、その選択が、小さな選択が、君を死に追いやったと考えると、僕はとても残念な気持ちになります。もし誰かが、誰か一人でも君の心の中を覗くことが出来たなら、或いは別の生き方が出来たのかもしれませんね。そうであれば、行きずりに話を交わして過ぎて行く人だけが唯一の友だなんて、そんな悲しいことを言わずに済んだのかもしれません。しかし、心の中を覗くこと、それは誰にだって許される行為ではありません。ましてや赤の他人に心の中を覗かれるだなんて、考えただけでも嫌気が差してしまいますね。でも実際問題、君の手記はベストセラーとなり、多くの読者が君の中を出入りしました。君が残した3冊の手記、それはとても多くの方に読まれたのです。手記は時に、その人の心の中に土足で踏み入ってしまいます。そして今、君の心に踏み行っているのは、他でもなく、僕自身です。そして、覗いたところで、結果的に君を救うことなど到底出来ないのです。
 君はそのことについて、どう思うでしょうか? やはり悲しむでしょうか。手記は誰だって内省的になるもの、人は誰だって心の中に闇を持って生きています。僕ら読者は、君の苦悩する姿ばかりをフォーカスし、君だと信じ込んでいます。本当の君のことなど、何も知らないのです。だからきっと、思い込みで判断するなと、君は怒ってしまうかもしれませんね。本当の君が存在していたのなら、是非ともお話してみたかったのですけれど。
 本当に、全てが今更ですね。

 どうしても他者が気になる君は、ある日、こんな言葉を綴りました。「何処かに、この広い宇宙の何処かに、私を見つめているsomeoneが居る。会って話してみたいものだ」と。
 この文章は、君のその言葉に反応して書き起こしたものです。君が亡くなってから44年の月日が経ちましたが、こうして、君へメッセージを残すことが出来、大変嬉しく思います。もし良かったら、いつの日か返事を下さい。さようなら。





ジャズ喫茶シアンクレール(Champ Clair)
既に閉店



















 編集後記

 結局のところ、赤の他人の手記の中に、自らの孤独の救いを求める行為自体、無駄であった。人は、生きている限り、何処まで行っても孤独であるし、それは決して救いを求めるようなタイプのものではなかったのだ。僕は彼女に同情し、情けないことに、彼女にも同情して欲しかっただけなのである。しかし、そう言ったイッサイガッサイ全ての行為に意味がないと気がついたのは、この作文を書き出した頃だ。この文章はいつまで経っても完結しない、と直感的にそう悟った。ダメだ、書けない。着地点が見当たらない、と。それはまるで、他人に救いを求める自己が、いつまでたっても救済されないのと同じようなものだ。
 人は、他人の中に自己を見つけること、すなわち拠り所を見つけることなど出来ないのだと思う。そういったものは結局、自分自身の中にしか見つけられないし、信じられれるものなどない。やはり人は、何処まで行っても孤独なのだろか? そんなこと今は考えている。

 物語(これが物語として成立しているとは思えないけれど)とは違い、僕が彼女に好意を抱いた点は、彼女は二十歳の若さで、未熟である自己を見つけていた、という優秀さにある。恥ずかしながら僕の方では、24歳くらいで未熟である、と気づいたのである。だから、初めて彼女の文章に触れた時、本当に優秀な人だったんだな、と心底思った。自分が自分である必要性について理解してはいなかったけれど、自分自身の人生を生きる重要性に彼女は気づいていた。しかし、結局のところ、孤高な人生を貫けなかったんだと思う。彼女が優秀ではなく、もっと凡人で、妥協することを知っていたなら、今でも生きていたに違いないし、生きているなら、会いたかったな、と思います。

 最後に、彼女の詩をひとつ

 旅に出よう
 テントとシュラフの入ったザックをしょい
 ポケットには一箱の煙草と笛を持ち
 旅に出よう
 
 出発の日は雨がよい
 霧のようにやわらかい
 春の雨の日がよい
 萌え出でた若芽がしっかりと
 ぬれながら

 そして冨士の山にあるという
 原始林の中にゆこう
 ゆっくりとあせることなく

 大きな杉の古木にきたら
 一層暗いその根元に腰をおろして
 休もう
 そして独占の機械工場で作られた
 一箱の
 煙草を取り出して
 暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう

 近代社会の匂いのする その煙を
 古木よ おまえは何と感じるか

 原始林の中にあるという
 湖をさがそう
 そしてその岸辺にたたずんで
 一本の煙草を喫おう
 煙を全て吐き出して
 ザックのかたわらで静かに休もう

 原始林を暗やみが包みこむ頃に
 なったら
 湖に小舟を浮かべよう

 衣服を脱ぎすて
 すべらかな肌をやみにつつみ
 左手に笛をもって
 湖の水面を暗やみの中に漂いながら
 笛をふこう

 小舟の幽かなるうつろいの
 さざめきの中
 中天より涼風を肌に流させながら
 静かに眠ろう

 そしてただ笛を深い湖底に
 沈ませよう

 二十歳の原点 高野悦子 より

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